「君がうちの部に来てくれるのは光栄だよ。  ・・・だけど君がいた学校ほど満足させる力はないのだが・・・。」 ≪そんなことありません。絵を描かせてもらえるだけでも十分ですよ。≫ 美術教室の隣にある美術準備室で作業していた久米教諭に は入部届を出しに来ていた。 昨年の夏季絵画コンクールで最優秀賞を取ったからか、 当時では多くの学校に名が知れ渡っていた。 ただ賞を取ることにあまり執着がないからすれば恐れ多いことだった。 「君のクラスに雅・・・・・・前島君がいるんだが、彼も同じ部員でね。  分からないことがあったら彼に聞いてくれ。」 ≪―――わかりました。≫ 普通なら顧問である久米教諭に聞いてくれ、と先に述べるのだが、 彼には生徒を管理するような仕事は不得意だという理由があった。 最もそれについて知らないは深く考えず頷いた。 美術準備室を後にして本館に戻ろうとしたとき、 ふと渡り廊下の突き当たりにある体育準備室に入っていく柴原教諭と 同じクラスの安原美彌の姿を見つけた。 柴原教諭は、肩を怒らせ、竹刀を杖のように床に突いている。 眉間にしわを寄せ、顎を突き出した顔は、性悪の日本猿にそっくりだ。 が見ている間、柴原教諭は美彌の肩を押すようにして体育準備室に入ると、 引き戸を閉める。 何か説明できない雰囲気に、嫌な予感を覚えたは無意識に体育準備室に向かう。 引き戸の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。思わず聞き耳を立てる。 「・・・・・・だから、これ以上、てめえの言うことなんか聞く気はねえんだよ!  こっちには、ハスミンが付いてんだ。セクハラ教師としてクビんなるか、  警察に逮捕されるか、どっちがいい?ええ?」 威勢のいい啖呵だった。 そういえば、美彌が柴原にセクハラされている、と怜花が蓮実に 相談を持ちかけていたな。 解決した、と怜花から聞いているが、柴原のセクハラはまだ続いていたのか。 教師らしからぬ行為をする時点で、の柴原教諭に対する評価はかなり悪かった。 美彌が一方的に言葉を発すると、沈黙していた柴原教諭が汚い言葉で返した。 「言いてえことは、それだけか?この雌犬があ!」 「なんだよ、てめえ?ここで暴力をふるう気か?  そうなったら、もう、ただじゃすまねえからな!」 「上等だ。おめえみたいな舐めた餓鬼には、大人の怖さを思い知らせてやる。  たっぷり、お仕置きしてやろうか。ここであったことを一生忘れねえよう、  身体に刻んでやるよ。」 「ざけんな!そんなことしたら、ハスミンが・・・・・・。」 「おめえの糞担任か?へっ。この馬鹿が。今さら、何ができんだよ?  おめえはなあ、ここまで一人でのこのこ付いてきた時点でなあ、  もう人生終わってんだよ!」 そのセリフを聞き終えた直後、 引き戸の隙間から柴原教諭が美彌を押し倒す光景を目にした。 それを引き金に、気付けばは力いっぱい引き戸を開けていた。 に向けてちょうど背を向ける形になっていた 柴原教諭の後頭部を思いっきり蹴った。 「何をしている?」 引き戸側から蓮実の声が聞こえた瞬間、は我に返った。 視線を落とすと、マットにうつ伏せている柴原教諭の姿が映る。 そして目線を変えると、こちらをじっと見る美彌と目が合った。 この状況を理解した途端、血の気がさーっと引いていく。 「何だ?・・・・・・どうかしたんですか?」 蓮実の背後から黒いジャージー姿の園田教諭が出て来た。 ますます言い難い状況になってしまい、は思わず上唇を噛むが、 意を決して本当のことを伝えようとした所に、蓮実が口を開く。 「いえ・・・・・・生徒に柴原先生が倒れていると聞いて駆けつけて来たんです。  どうやら何かにぶつかって気を失ったようで・・・・・・。」 「(えっ・・・!?)」 が驚愕した表情で蓮実を見るが、 保健室まで運ぶのを手伝ってほしい、と言う始末だ。 不審に思う素振りを見せない園田教諭と気絶した柴原教諭を支える蓮実を 何も言わない美彌と一緒にただ眺めていた。 *** は美彌と共に、蓮実に屋上まで誘導された。 「わたし達だけで、まずいんじゃない?」 と甘えた口調で言う美彌に対し、そんなことはどうでもいい、と 厳しい顔で達に向き直った。 「それより、なんで、俺に黙って、一人で柴原に会いに行ったりしたんだ?」 「だって・・・・・・。」 私もいるのに話を聞いていいのか、と訊きたかったが、 美彌は悪びれた様子もなく、淡々と先程の件について語り出した。 が後から割り込んで柴原教諭の頭を蹴ったという事まで、 時折、の顔色を窺いながら蓮実に伝える。 「馬鹿。そんな下らない理由で、一人で付いていったのか?  が割り込んで来なかったら、取り返しが付かないことになってたんだぞ。」 「うん。」 「うんじゃないだろう?おまえなあ・・・・・・。」 何か言いかけた蓮実だが、 間を空けて柴原教諭に二度と二人きりで会うな、と注意した。 「・・・・・・美彌、先に行ってろ。にも言っておきたいことがある。」 「・・・・・・ハスミン。が退学になんて・・・ならないよね?」 初めて美彌に名前で呼ばれ、思わず彼女を凝視した。 元々、美彌とは親しい真柄ではない。むしろ、彼女は嫌いな部類に入る。 何故なら怜花をいじめた張本人であるからだ。 しかし、そんな事実がウソであるかのように が退学になることを心配している。 「いや、大丈夫だ。が学校を辞めなくてもいいような方法を考えるよ。」 「本当?」 「ああ。」 蓮実が力強く答えると、美彌は納得した表情で頷いた。 扉に向かう途中、とすれ違うところで美彌は耳打ちする。 「あんたに助けられたの・・・・・・うれしかったよ。」 僅かに見えた美彌の口元は緩んでいて、 男子生徒を足蹴りしていた本人とは思えない程、 どこにでもいる少女の顔だった。 思わず、の表情も和らいだ。 美彌が去っていくのを見届けると、蓮実は改めてと向き合った。 「・・・・・・何で一人で突っ込んだんだ?  もし柴原が気絶していなかったら、手に負えないことになっていたんだぞ。」 ≪―――すみませんでした。≫ 「でも・・・・・・本当に無事でよかったよ。」 壊れものを扱うように、蓮実はの頭を撫でた。 親衛隊や美彌の頭をぐしゃぐしゃに撫で回す乱暴なものではないことを は知らない。 「だけど何故、そんなことしたんだ?退学だけじゃ済まなくなるのに。」 ≪―――昔、男子にいじめを受けていました。  暴力はありませんでしたが・・・男子を嫌うきっかけになったのがそれです。≫ 「・・・でも、それと何の関係があるんだ?」 ≪―――守れたはずの人間を助けられなかった、  という悔いが強く出たのではないでしょうか。≫ それは亡くなった母と弟のことであるが、あえて伏せておいた。 何となく察した蓮実は、詳細を求めようとはしなかった。 ≪それと、先生。≫ 「ん?」 ≪私・・・・・・退学ですよね?≫ 「・・・根拠のない暴力だったら、そうなるんだろうな。  でも、は友達を助けるために闘ったんだ。」 「(闘うなんて大袈裟な・・・)」 「それに、あっちは同じ教師として許せない行為をしたからな。  絶対君を、退学になんてさせないよ。」 ≪―――ありがとう御座います。≫ 身勝手なことした自分をそれでも救いの手を差し伸べてくれる。 彼こそ、皆の求める『理想』の教師ではないだろうか。 怜花が蓮実に対する不信感を抱いていることを、 今ではすっかり頭から抜けていた。