「刑部さ」
「うむ・・・」
ご丁寧にも襖から顔を出し、新たな書物を山と化している頂に置くと、
少女はしゅばっと姿を消した。・・・もちろん、閉めるのを忘れずに。
元服を済み、刑部の官位を得た紀之介は大谷吉継と名乗った。
半兵衛と並ぶほど頭が切れると言われようになった頃には、
あの幼子は少女へと成長し、忍見習いという形で他の武将たちとも顔を合わせるようになった。
だがその一方で―――・・・。
「貴様ァ・・・!私が呼びかけたら即応じろと何度言えば気が済む!?」
半兵衛直々の命により、佐吉改め石田三成の下に少女ことを置くことになっている。
その話が来るまで眼中になかった三成は今になって少女の存在を意識し始めた同時に、
不快感を全面に露わにした。理由は言うまでもない・・・。
「ヒヒッ、また怒鳴らせておったな風の子よ」
「む”う・・・怒ら”すづもり、ない、のに・・・」
手が空いたのを見計らって招かれたは、渋い顔で大谷が淹れた茶を手で何度もあおいだ。
三成はほぼ理不尽な言い掛かりを見つけては、先程のように少女に怒りをぶつけている。
それでも彼女を見放さないのは、半兵衛の期待を裏切ることになるので、
本人はそれを絶対許さないからだろう。
「あやつも飽きぬものよな・・・」
ぼそりと出た言葉は、遠くから轟く三成の怒声と官兵衛の悲鳴によって掻き消された。
***
ある日、羽織の裾をボロボロにしたままの官兵衛が、輿に乗る大谷のところへ訪ねた。
「刑部、お前さんは知らないだろうが、安易にを茶の誘いはしないでくれないか」
「はて・・・何のことやら、さっぱり」
「とぼけたって無駄だぞ!
此間、急かすことないと言って茶菓子もあるとお前さんの部屋から聞いたんだ!」
「・・・ヒヒ、盗み聞きとは趣味が悪い」
しかも、ずっと機会を待っていたとは・・・陰気なやり方をする。
「風の子は気軽に語り合える友がいない故、われが相手してやろうと思ったまでよ」
「はっ・・・どうだかな」
大谷に対して終始嫌味で溢れているが、突然声のトーンが低くなった。
「あいつの口に巻かれた包帯を見ただろ・・・。
直接は見てないが、負った傷痕はかなりひどいらしい。
口を開く度に痛みが来るってな。喋れているが、あれでも精一杯だ」
「して・・・あの口調であるか」
「前よりまだマシになったがな・・・怪我のせいでまともに食事ができない」
が口にできるのは兵糧丸や野菜を細かく水で薄めたもので、
極力口を動かさない食事で強いられている。
食べることはもちろん重要であるが、現状はそれができない。
「つーわけだ。声かけようが勝手だが、変な真似だけはするなよ」
「ヒッヒッ、まさに親の鑑よ。それが暗とは・・・あの風の子も不幸よな」
「す、好きで世話やってるんじゃないわい!」
じゃあな!と一際大きい声で言ってから大股で去った。
大谷はやれやれ、と肩をすくめ、古い包帯を変えようと自室を出た。
わざわざ此方に足を運ぶほど、よほどあの少女を気にかけているようだ。
まあ、本人は世話を押し付けた賢人に小言以上のものを食らうのは
避けたいのだろうが・・・・・・。
「刑部、さ・・・?」
聞き覚えのある声をかけられ、我に返った。
包帯は中途半端に緩めたままで、崩れた肌を曝け出していた。
そうとも知らず、呆然と立ち尽くすをよそに、大谷は古い包帯をもう一度肌の上を覆った。
「われとしたことがついつい・・・醜いものを見せてすまんな」
大谷は平然とした口調で返した。
は首を横に振り、ごめんとか細い声がした。
「ぞれ・・・いだい?」
「痛みはとう昔に置いていった。今は体調を崩すのが厄介よな・・・」
「う”ち・・・包帯、変えう”・・・手伝う”!」
はそう言って、まだ手をつけていない清潔感のある包帯を持った。
しなくていいと止めるより先に、小さな手が肌に触れ、身体が硬直した。
ここに仕えて女中に一度しかやって貰っていない中、この少女は自分から進んでやっている。
「・・・風の子よ、ぬしがここに来てどのくらいか」
「う”〜・・・五年、かな”?」
「ならば、われが業病を患っているのを知らないとは言うまい・・・」
「・・・う”ち、刑部さの病気、ぐわしぐ、わがらない。
刑部さ、包帯がえてぐえた…う”ち、も・・・包帯がえたい。
移る、とか・・・う”ち、ぎにしな”い」
は再び大谷の腕に視線を戻し、くるくると巻いていった。
慣れた手付きからして、口を覆う包帯は普段自分でやっているようだ。
ここでふと、官兵衛の話を思い出す。
『直接は見てないが、負った傷痕はかなりひどいらしい』
初めて顔を合わせた頃から、少女は今も傷を抱えている。
一体、どれほどの苦痛を味わったのか・・・。
「して・・・風の子よ、傷の具合はどうだ」
「え”っ・・・う”〜・・・あま”り・・・」
「そうよな、その口では茶菓子すら満足にのみ込めぬであろ」
びくりと、の肩が震えた。
あの時は僅かだが、彼女の白い布の間から皮膚が抉れていたのを見た。
時は経とうが、はまだまだ子供だ。恐れない人間なんてどこにもいやしない。
「哀れよな・・・親と共に逝っていれば生き地獄を受けずに済んだであろ」
さあ、ぬしの顔を見せやれ―――・・・。
「でも、う”ち・・・生がされ”てう”、から”」
にこりと、子供と思えない微笑みを向けた。伸ばしかけた腕がピタリと止まった。
己が見たいのは『それ』じゃない。何故、そんな顔ができるんだと目の前にいる少女を見た。
「刑部さ・・・?」
「・・・いや、何でもない」
「忍ぃーッ!忍見習いはどこだーッ!」
少女を探す声がここにまで響き渡ってくる。
三成は頑なに名前で呼ばないため、あのような呼び方をしている。
鼓膜が張り裂けそうなその声が今回ばかり有難く思えた。
「ほれほれ、ぬしの教育係が呼んでおる」
「う”ん。・・・・・・刑部さ」
「何だ」
今はただ、この娘の目を見たくない。
早く出てってくれと感情が表に出そうでならない。
「迷惑、じゃな”かたら・・・お茶、飲ませで?」
これまた拍子抜けな言葉に思わず、は、と声を漏らした。
間をおいて、気づかれないよう静かに息を吐いた。
「われの手が空いてたら考えよう・・・さあ、行きやれ。また三成に怒鳴られるぞ」
「・・・う”ん!」
は大きく頷いて部屋を後にした。
やっと少女がいなくなったのにも関わらず、大谷の瞳は動揺したままだった。
この鼓動の正体は何なのか
2016/03/28