*名前変換なし
いつものように村から離れた川で水を汲んでいた。
子供特有のややぷっくりとした足を水面に下ろし、木陰でそれを揺らしながら涼んでいた。
ぽかぽかとした春日和にはちょうどよい水加減でとても気持ちがよかった。
十分に涼んだし、そろそろ帰ろう。
水が入った桶を抱えると、森の方から微かに音がした。姿が見えない。
以前、ここには熊や狼が出ると親から聞いた話を思い出す。
顔を強張らせ、じりじりと後退し始めた途端、風を切る音がはっきりと聞こえた。
森の奥に、太陽の光を浴びまいと陰に潜んでいる。
明らかに只者ではない風貌にどこか神秘性を感じさせた。
あれって人、だよね・・・?
もっとよく見たいと足を一歩踏み出した途端、その男は音を立てず突然目の前に現れた。
後ろに背負うのは刀。手には苦無。
確実に危険を感じるであろう中、少女は屈託のない笑顔を見せた。
「すごーい!あなた、しのび?かっこいいね!」
すると、男の動きが硬直した。
それをいい事に少女はぐるぐると男の周りを駆け回る。
この身分で本物の忍をお目にかかるなんて一生ない。
走るのをやめて今度は武器や彼の顔をじろじろ見た。
「うでふとーい!どうやったらきんにく、つく?」
畑仕事を手伝ってるけど全然ならないなー。
自分の細い腕を見てむむっと唸る少女をよそに、男はピクリと反応した。
未だに自分の腕を睨む少女の隣を横切ると、
目ざとく気付いた少女はすぐに「しのびさん。」と声をかけた。
「きをつけてね。みんな、しのびはよごれしごとのやくだっていってるけど、
けがしないでね。」
忍がどういうものか詳しくは知らない。
世間からはあまり良い印象を持っていないのは確かだ。
しかし、少女は雇い主の代わりに命をおしてでも、
仕事を全うする忍をすごい人達だと思っている。
男は何処と無く困惑した様子で少女を見つめた。少女も負けじと見つめ返した。
男は何を思ったのか、再び少女の方へ足を向ける。
彼女の目線を合わせてなるべく体を小さくした。
「しのびさん?どうしたの?」
もう一度しのびさんと呼ぼうとしたが、そっと当てられた指で塞がれた。
そしてその指を、男は静かにと仕草で伝えた。
「あ、そっか。おしのび、してるんだよね?なまえよんじゃだめだもんね。
ごめんね!ここにあなたがきたこともしーってするね!」
少女も同じ形を取ると、男は小さく頷いた。
立ちあがった次の瞬間、その場から消えていた。残された一つの宵闇の羽根。
少女はそれを拾いあげ、男が去った場所に向かって手を振った。
***
豊臣の動きを探れと命を頂き、人気のない森から潜入したのはよかったが、
この先にある村の住人であろう子供がいた。
気付かれる前に別の木に飛び移ろうとした途端、その子供が此方に振り向いた。
音を立てるどころか、あの距離から聞くのは普通の人間では無理な話だ。
まさかと、男は武器を片手に、瞬時に子供の前に現れた。
始末しなければと苦無を構えるが、「すごーい!あなた、しのび?かっこいいね!」
相手は怯えるどころか飛びつかんとするような笑顔を見せた。
雷にでも打たれたかのような衝撃が走る。何なんだこの子供は?何故動けない・・・?
「うでふとーい!どうやったらきんにく、つく?」
自分の腕を見る子供を捉え、停止しかけた思考を動かす。
そうだ、相手は子供・・・・・・。だから畏怖を抱かないのだと自己解釈した。
ここで止まっては仕事が始まらない。「しのびさん。」
子供が何か言ってくるがもう無視しよう。
「きをつけてね。みんな、しのびはよごれしごとのやくだっていってるけど、
けがしないでね。」
後ろから投げられた言葉にピタリと立ち止まってしまった。
忍は使い捨て。ただの駒。
いくら優秀だろうと伝説の忍と言われようと、武士や薬師とは違い優遇される存在ではない。
子供はそれを知らずに言ってるなら聞く耳など持たない。
だが此方を真っ直ぐ見る子供の瞳には純粋な心配があった。
互いに名を知らないのに、どうしてその言葉をかけてくれるのか・・・・・・。
しかし不思議にも、かけてくれる言葉を鬱陶しく感じなかった。
「しのびさん?どうしたの?」
いや、何でもない。
だが、屋外でそれ以上その名称を呼ばないでほしい。
「あ、そっか。おしのび、してるんだよね?なまえよんじゃだめだもんね。
ごめんね!ここにあなたがきたこともしーってするね!」
この子供は頭もいいようだ。
是非そうしてくれと頷き、その場から立ち去った。
予定よりも数秒遅れてしまったが、今回も完璧に任務を全うした。
あの、小さな少女のことを除いては―――。
***
あれから時が経つのは早く、再び豊臣の領地に踏み入れていた。
そういえば、あの森で幼子と会ったな・・・。
最近聞いた話では、己があの場から去った数日後に山賊が現れ、
すぐ近くの村を襲撃したという。
生存者はいないと言われていたが、一人だけ生き残り、豊臣の兵になった。
それが当時まだ小さかったあの子供である。
戦とは無縁な人の子を忍にするとはこの世は無情である。
あの頃のような無邪気さはなくなったが、任務遂行中に再会し己に対する敬意を払っていた。
何故敵に向かってそんな真似ができるのか、昔から理解できない。
あんな状況で果たして生き残れるのか―――気付けばあの時の子供のように、
今日もあの子の姿を目で追っていた。
見守る宵闇の鳥
2016/02/03