まだ無傷であることにこれほど喜ぶことは一生ない。 自分を花嫁にしようと奴に捕まったが、何とか窮地を脱することができた。 何故、あの人物は俺を助けたのか理由はわからない。一つだけわかるのは、今なら逃げられること。 片脚を負傷して走れないが、まだ歩ける。 とにかく、一刻も早くここから離れなければならない。 できるだけ奴から遠く、もっと遠くへ―――。 足を引きずりながら一つ一つ部屋の中を覗くと人影がある。 窓から差し込む光で、その姿がはっきりと見える。 明らかに外部の人間であろう比較的きれいな服装で、身体付きが細い。 後ろ向きで顔は見えないが、時折肩を回して身体をほぐす仕草をしていた。 ここにいる人間は皆信用できないが、微かな期待と不安から空いているドアを開く。 僅かな音ですぐに反応を示す人影に緊張が走る。 相手は開いたドアを注視するが、動く気配がない。 このままでは埒が明かない。無謀な行為だが、意を決してドアの陰から自分の姿を現した。 どちらも玉を食らった顔だったが、恐らく一番驚いたのは俺の方かもしれない。 「・・・こんばんは。貴方は外から来たの?それとも内から?」 女性だ。それでいて『まだ』話すことができるのは奇跡に等しい。 「ああ、そうだ。俺はパーク。先日までエンジニアをしていた。」 他人に自己紹介するのが何十年ぶりと感じる。すると、彼女はまた目を見開く。 大抵は目が合えば襲う連中しかいないのだから当然だ。彼女はと名乗った。 「、君は誰かとここへ来たのか?この部屋で一体・・・」 「・・・どうしてそう思うんです?」 「えっ」 「ここでのことを存じているなら、私に声かける必要はないのでは?  何故、私が患者でないと言い切れる?もしかしたら外から入ってきた相手の服を奪って、  それを着てるかもしれないのに」 「それは・・・」 淡々と返された予想外の反応に困惑した。 たまに問いかけるような言葉をかけられてきたが、今回はどれも的を得ている。 この極限状態の世界でよくその言葉が出せるなと思う反面、 どうしてそう冷静にいられるのか理解できない。 俺が怪訝な表情をしているのを見て、彼女は静かに息を吐いた。 「・・・ごめんなさい。初対面でこんなこと言うのはどうかしてると自分でもわかってる。  ここに来た時は二人。その途中、離れ離れになって未だに見つかっていない。  貴方はその人を頼りにしたかったようだし、  どっちにしろがっかりさせてしまうから・・・ごめんなさい」 彼女はもう一度、謝罪の言葉を口にして目を伏せた。 わざわざ遠回しな言い方をするなんて何を考えているのか。 今わかるのは、という人間は自分よりも心の余裕がある。 言動やその心持ちから、多くの事に関わってきたジャーナリスト系の者だろうか。 連れが近くにいないのは少し残念だが、 のようにまともに会話ができる人物に巡り会えたのは嬉しい。 ますます謎が増えるばかりだが。 「、俺はここから脱出したい。一緒に行動して君の知人を捜さないか?」 一人よりも二人の方が心強い。 この施設から生還できる確率は高くなる。 は先程から変わらず表情を変えない。 「そう・・・ですね。一人多い方がお互いにもメリットがある。  でも、せっかくですが、大丈夫です」 「大丈夫のはずがないだろう!?君は、このフロアにいる奴を・・・」 「グルースキンのことでしょう?」 自分は今、芋虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。 今一番聞きたくない名前。思い出したくもないあの地獄。 それでも彼女は、表情を崩さない。 「彼が何をしてきたか知ってます。  患者の殆どが恐れられる理由を、あなたは身を持って知っている。  私は幸いにもまだ首は繋がっているけれど、  一度『花嫁』にしようとした貴方たちに関わったと知ったら、互いも危うくなる」 「それじゃあ君は・・・はどうするつもりだ?」 「一緒に行動はできないけど、脱出経路を伝えられる。  だけどこれはグルースキンが注視しないルートだからあまり期待はしないで下さい」 「・・・いや、十分だ。その行き先を教えてくれ」 本当はともに行動したかったが、 ここまで硬い意志を魅せつけられると、これ以上は言えなかった。 数分前までは他人同然で、どちらも命が惜しく思っている。 彼女も、自分が言ったことがどれだけ無謀であるか分かっているはず。 俺とは年が離れ、性別も違うのに、何を経験すればそんなにも強くなれるのだろうか。 「あの通路から真っ直ぐ進んで右を曲がって、あとは真っ直ぐ進んで下さい。  もし追われていたら空いてる窓へ飛び込んで下さい」 「随分荒い方法だな・・・けど、自分の命と考えたらまだ贅沢な方か」 そして俺はもう一度、彼女に伝えた。 「・・・俺がとやかく言う立場じゃないが、君も命がある内に逃げてくれ。  この施設はどこも安全じゃない。今はまだ見つかっていないが、  君の知人はただ好奇心があって飛び込んだ人間じゃない。君のようにピンピンしているさ」 「・・・ええ、ほんと・・・そうでなきゃ困ります」 困るという言葉とは裏腹に、先程よりも柔らかい表情を見せる。 張り詰めた顔よりもずっとよかった。しかし、穏やかな時間はほんの束の間でしかない。 「Darling!どこにいるんだい、出ておいで!」 「パークさん」 早く行ってくれと目で訴えている。 彼女一人だけにするのは気が引けるが、の気持ちを無駄にはしたくない。 片脚を引きずりながら、言われた通りに右角を曲がろうとした。 「もし会えたら、私があんたを殴るまでくたばるなよって伝えてください」 後ろからがそう言うが、俺は振り返らず、前を進んだ。 再び迫る何が起こるか分からない闇にぐっと 胃を掴まれた感覚に呻くが、自分の脚に歩けと強く命じた。 自分も含め、彼女たちが最悪な結果にはならないことを祈るしかない。 2018/05/01